待つということ あとがきから、

待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といったところがありそうだ。

痛い思いをいっぱいして、どうすることもできなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることもできるようになってはじめて、時が解決してくれたと言いうるようなことも起こって、

でもやはり思っていたようにはならなくて、それであらためて、独りではどうにもならないことと思い定めて、何かにとはなく祈りながら何事も期待をかけないようにする、

そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけのじぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということ自体が苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで・・・。

そんな想いを澱のように溜め込むなかで、ひとはようやっと待つことなく待つという姿勢を身につけるのかもしれない。

年輪とはそういうことかとおもう。